- 哲学講座

2012.3.7 Yo Haiku 哲学入門セミナー

「哲学入門セミナー」17

今回は、「VRに関する倫理問題-SLを通しての暴力は「本当」なのか、違うか、悪い行動か、それとも、あくまでもフンタジー、問題ないのか-」という問題を取り上げました。

「普通のルールではない」という観点から
功利主義:結果的な利益を見る。暴力を増やしてしまえば悪い、反対に満たされて暴力が減れば、よい。
ギリシャ・アリストテレス倫理学:人間形成に与える影響を見る。暴力は、ゲームであるからいいとは言い切れない。
カント哲学:動機を見る。暴力をふるう動機が悪ければ、その行為は悪い。

次回も引き続き、ヴァーチャルでの不倫やレイプ問題を見て行きます。

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2012.2.1 Yo Haiku 哲学入門セミナー

「哲学入門セミナー」16

今回は、

「哲学っていったいなに?」

という質問を皮切りに、ディスカッションを進めました。

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2011.12.7 Yo Haiku 哲学入門セミナー

「哲学入門セミナー」15

今回は、

心から感動した音楽が友人にとってそれほど価値を持っていなかったり、逆に世間的に傑作とされているアルバムが私に響かなかったりすることをしばしば経験してきたのですが、わたしの価値と他人との価値のズレは現象学的に見るとどのように見えるのでしょう

という質問を中心にお話を聞き、ディスカッションしました。

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2011.11.2 Yo Haiku 哲学入門セミナー

「哲学入門セミナー」14

今回からは、古代からの哲学の流れ、現象学や西田哲学を巻き込んだ、大きな哲学の概観を講義していただきたいということで、哲学と聞くと、これがいつも気になる、この言葉の意味知りたい、この話が聞きたい、という質問を持ち寄りました。

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2011.10.5 Yo Haiku 哲学入門セミナー

「哲学入門セミナー」13

三木清の「人生論ノート」から、幸福が人格である、そして、幸福が表現的である、ということを取り上げました。

幸福の「中身」は自己にあるので、もの、お金、名誉など、自己に対して「絶対必要でもない」外部のものに依存しない。とは言え、自己の中だけで「幸せ」というのでもありません。幸福は外に現れ、伝播してしまうもの。親切、寛大さ、温かさとして外部ににじみ出、他者がそれに反応してはじめて、それは幸福となります。

無人島で誰もいなくても、他人を前提とした世界を自己は理解しています。そこで自分は「幸せなのか、不幸なのか」は、おもしろいことに、その人が無人島にいても、雑踏の中にいても、その人の考えとしてはあまり変わらないのです。

-講義より

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2011.7.5 Yo Haiku 哲学入門セミナー

「哲学入門セミナー」12

「幸福は人格である。ひとが外套を脱ぎすてるようにいつでも気楽にほかの幸福は脱ぎすてることのできる者が最も幸福な人である。」

「機嫌がよいこと、丁寧なこと、親切なこと、寛大なこと、等々、幸福はつねに外に現われる。歌わぬ詩人というものは真の詩人でない如く、単に内面的であるというような幸福は真の幸福ではないであろう。幸福は表現的なものである。鳥が歌うが如くおのずから外に現われて他の人を幸福にするものが真の幸福である。」

三木清「人生論ノート」の中の「幸福について」をとりあげました。
質問、意見、コメントのあるかた、このブログにアクションください。

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2011.6.8 Yo Haiku 哲学入門セミナー

「哲学入門セミナー」11

社会哲学、政治哲学、倫理学、美学、宗教哲学、科学哲学、歴史哲学、言語哲学・・・。哲学にはさまざまな種類がありますが、その中のひとつに、日本哲学というものがあります。1911年-1945年あたりに西田幾多郎をはじめとする京都学派が盛り上げた哲学です。

この日本哲学は、1943年頃-終戦に帝国主義思想、天皇主義を支持する政治哲学を展開した咎で、「犬も食わない」、埋められた思想となりました。以降、哲学の世界では京都学派や日本人哲学者がまともに取り上げられることはなく、哲学とは西洋哲学を指すのが主流となりました。

とは言え、西田幾太郎はもとより、三木清もマルクス主義や技術哲学で、和辻哲郎も倫理学で、現代に通用する優れた考察と研究を行いました。彼らの研究には、右傾批判にかすめ取られるべきでない、封印された真価があるかもしれません。

次回は、三木清の「人生論ノート」より、「幸福について」の中の文章を引用し、その内容を掘り下げてみましょう。

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「人生論ノート」 → 青空文庫

2011.4.5 Yo Haiku 哲学入門セミナー

「哲学入門セミナー」 10

他人にはわからない「わたし」の考えていること、見ている世界。しかし、その意味の世界、おいたち、その内容は、間主観をベースにはぐくまれているものです。

外には他人、歴史、言語の動く世界があり、自分が理解する「意味」そのものが、その世界なしには考えることができないからです。

「わたし」は、この間主観性に基づくレベルと、それを独自の観点と歴史から「今」として常に作り出しているレベルの、二重の構造の中に生きているようです。

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2011.2.1 Yo Haiku 哲学入門セミナー

哲学セミナー9.JPG「哲学入門セミナー」9

真実もわたしも、実はここから成り立っていると言う第二人称自己は、間主観性という言葉でも表されます。

物理主義者が言うように、現実は「間主観」をこえてあるのでしょうか-数学、物理、科学は、人がいようといまいと、成り立つ、そうでしょうか。

それとも、現象学者が言うように、間主観に拠らない客観はないのでしょうか。意識の外にあるはずの現実も、わたし達の意識を超えては存在していない、そうでしょうか。

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2010.12.7 Yo Haiku 哲学入門セミナー

哲学セミナー8.jpg「哲学入門セミナー」8

二人称自己「われわれ」は、一人称の自己が後ろにひき、「自分」と「他者」の境界があいまいで、あたかも「間」が主体であるような「わたし」のありかたを指すようです。

この二人称の立場が、実は一番の根本で、そこから主、客がどちらもできあがるという立場があります。

まったく純粋な第一人称は、ひとりごとの時もなく、客観的事実も立証を経ることで「間」に基づく、そういう立場があります。

次回は、この二人称の世界の根本を現象学的に見てみます。

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