科学の視点をホームベースに、「正しい視点はほかにもある、それは何だろう?」という問いを 探求します。

哲学講座

哲学セミナー9.JPG「哲学入門セミナー」9

真実もわたしも、実はここから成り立っていると言う第二人称自己は、間主観性という言葉でも表されます。

「間主観」をこえて現実はあるのか-物理主義者は、数学、物理、科学は、人がいようといまいと、成り立つといいます。

それとも、現象学者が言うように、客観やそこにあるはずの現実も、わたし達の意識を超えては存在しない、という立場から、間主観に拠らない客観はないのでしょうか。

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哲学セミナー8.jpg「哲学入門セミナー」8

二人称自己「われわれ」は、一人称の自己が後ろにひき、「自分」と「他者」の境界があいまいで、あたかも「間」が主体であるような「わたし」のありかたを指すようです。

この二人称の立場が、実は一番の根本で、そこから主、客がどちらもできあがるという立場があります。

まったく純粋な第一人称は、ひとりごとの時もなく、客観的事実も立証を経ることで「間」に基づく、そういう立場があります。

次回は、この二人称の世界の根本を現象学的に見てみます。

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「哲学入門セミナー」7

「見られた自己」と「見る自己」の連なりである「わたし」が外部と交わるとき、そこに一人称自己、二人称自己、三人称自己の三様の関係性が現われるようです。

一人称の主観的真実、三人称の客観的真実、そして、二人称の「わたしたち」的真実。それは、「わたし」にとっての真(一人称)、「わたし」を介さずとも存在する真(三人称)、そして、「わたしたち」の了解、共有知としての真(二人称)と定義することができそうです。

次回は、二人称自己と真実の関係を深めます。

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善悪の彼岸ポー川.jpg

「哲学入門セミナー」6

「真の事実」は、「わたし」を離れて存在するものと、「わたし」が捉まえる主観的な真のふたつがあるようです。ところが「わたし」とは何の関係もなく厳然とある事実も、つきつめてみれば「わたし」の意識の一部。とはいえ、「わたし」は、「わたし」の意識があろうがなかろうが、事実が存在することを知っています。それはどういうことでしょうか。「わたし」の構造は、どうなっているのでしょうか。

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哲学セミナー4.jpg 哲学入門セミナー」5

もの見る、体験をする、その本体である「わたし」が、「見る自己」「見られた自己」の連なりの中で外部に触れ、他者と出会います。出会いはどこでしょうか。どう、他者と交わるのでしょうか。

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哲学4.gif「哲学入門セミナー」4

自分という「見られた自己」を見つめる「見る自己」。このふたつは絶えず絡み合いながら、今というときを体験しています。

この自己の棲んでいる時間は、同じ時間でしょうか。

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哲学入門セミナー.jpg

「哲学入門セミナー」 3

自分というとき、その自分を見つめる自分、という二重構造が立ち上がります。見る自己、見られる自己、このふたつは、わたし、という主体を躍動感をもって構成しているようです。

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哲学入門セミナー.jpg「哲学入門セミナー」 2

先月の初回ディスカッションでリクエストの出た、「自我」について。心理学と哲学では「自我」はどう違う。まず、哲学が「わたし」をどう位置づけているかを見てみました。

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哲学入門セミナー.jpg「哲学入門セミナー」 1 

講師:ドイツのハノーバー哲学研究所フェローの有坂陽子さん(Yo Haiku)

初回ということで、哲学について、カジュアルなディスカッションを行いました。

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